日本歯科評論5月号
9/9

中なか道みち 勇いさむ中道歯科医院〒930-0106 富山市高木2366-1 昭和■(1927)年から始まった画期的な歯科の社会保険の歴史を振り返るとき,最初の20年間は血脇守之助氏を中心とした日本歯科医師会と政府との間で協定した料金表で健康保険診療報酬点数を決めていたが,料金は時間的要素を考慮した誰もが納得できるものであった.昭和■(1933)年の歯科医師会令の第三次改正では「歯科医業報酬の標準額に関する事項」を歯科医師会が議決し施行し得る事項となり,診療報酬点数計算規程は会内部の業務規程から,勅令の条文として取り上げられるまでになった1).血脇守之助氏の社会保険調査会委員をはじめ,島峰 徹氏■)や奥村鶴吉氏は政府の委員会に委員として委嘱されるなど組織は拡充した■).戦後, 血脇氏や島峰氏の死後,その意志は佐藤運雄氏らに引き継がれた.佐藤氏は常々「活眼を開け」とよく言っていた.歯科医療の発展期といえる■). しかし,昭和33(1958)年に新医療費体系がスタートしてからは保険点数の改正は厚生省の歯科の技官に委ねられた.新体系では「技術」と「物」を分離することになっていたが,歯科ではなぜか分離されず,点数改定を「物」を含めて行い「技術料」の評価が9年間で約16%低くなった.歯科の技官が少なく膨大な分離の作業ができなかったのかもしれない.昭和42(1967)年に材料基準価格が作られ, 一部の点数は「技術」と「物」に分離され適正な技術料評価がなされるはずであったが,改定は総医療費を対象に「技術」と「物」を分離せず実施された.このような昭和33(1958)年からの不合理な改定は26年間も続いた. そして, 昭和56(1981)年の診療報酬改定からは薬価引き下げ財源充当方式が始まり,医科歯科の不合理な改定率格差がさらに16年間も続いた.16年間における改定率の格差で約3,770億円の歯科医療費が失われたこととなる.新医療費体系におけるルール(「技術」と「物」を分離して診療報酬を適正に評価して,歯科の初診料も医科と同程度とする)■)を厚生労働省自らが厳守しない歯科軽視の政策が現在の歯科医療の低評価の原因となった.昭和33(1958)年からの50年間の低迷期は「裏切りと屈辱日本歯科評論(通刊第967号) 109-その5 次期診療報酬改定に向けての提言--その5 次期診療報酬改定に向けての提言-これまでのまとめ2024年度診療報酬改定に向けて歯科の適正医療費は歯科の適正医療費は4兆3,800億円である4兆3,800億円である!!

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る