日本歯科評論4月号
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中なか道みち 勇いさむ 政府の新医療費体系をベースとした単価改正案は中医協で紛糾したが,最後は橋本龍伍厚相の調整で甲乙二表が決定し,日本歯科医師会は甲表の内容を盛った歯科点数表を採用し,昭和33(1958)年10月から実施された. 新医療費体系の意図は,「技術」と「物」を分離し,医療に対して適正なる報酬を支払うことであった.また,歯科においては,初診料を医科と別建てとすることは好ましくないということで,内科,小児科あるいは眼科,耳鼻科と同程度の診察料を支払うこととなり,補綴から一部財源が移された.また,診療に対する報酬は技術料,人件費および経費からなるS方程式で示され,技術料は国民所得の向上に比例して引き上げられる予定だった■). ■点単価引き上げをめぐり三師会と政府との対立が続き,日本医師会との共闘体制が強化され,昭和36(1961)年■月19日には全国一斉休診が決行され,翌日には医療保険改革全国歯科医師総決起大会中道歯科医院〒930-0106 富山市高木2366-1日本歯科評論(通刊第966号) 117 これまでの■回で,社会保険の歴史に基づく適正医療費のあり方,医科にみる「検査」と「治療」や歯科医療費の実態を顧みて,歯科は医科と異なり約50年にわたって,きわめて不条理な対応を受けてきたことを述べてきた. 今回は,平成21(2009)年11月号で述べた「歯科の適正医療費は■兆円」はなぜ達成できなかったかという原因を,これまであまり語られなかった視点から言及してみたい.中医協委員を務めた齋藤憲彬氏でさえ,最近の著書『歯科診療報酬の論点』■)で「医科と歯科の間の経済格差の始まりは昭和56年から」と記述しているが,果たしてそうだろうか.実証的に昭和33(1958)年に新医療費体系ができてから10数年間の主要診療項目の点数と保険収入の推移を顧みて,歯科の医療費低迷の根源はこの時代からあり,昭和56(1981)年以降の「歯科の失われた16年」がこれにさらに拍車をかけていったことについて論考する.はじめに医療費低迷の原点は昭和33年2024年度診療報酬改定に向けて歯科の適正医療費は歯科の適正医療費は4兆3,800億円である4兆3,800億円である!!適正歯科医療費「4兆円」はなぜ達成できなかったか---その4 -その4 適正歯科医療費「4兆円」はなぜ達成できなかったか

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